| アルゼンチン・ブエノスアイレス、2003年2月24日月曜日付――クロップチョイス・ニュース発:
ゲルコ株式会社は、甘いものなら何でも作ります。アイスクリームやキャンディ、チョコレート、ペストリー、約1,800種類のべとべとの砂糖菓子、全て作ります。2001年にアルゼンチンの経済基盤が崩壊した時、かつて栄華を誇った製菓工場のオーナーたちは、もはやその繁栄を保つことができず、ついに工場を閉鎖し、破産を申告しました。
その時、工場の従業員たち、男性42人と女性1人は、大胆な手段をとりました。工員たちは操業停止を拒否し、債権者による機械の差し押さえを力ずくで阻止、週日毎日出勤し、掻き混ぜ、泡立て、焼き上げ続け、自社名を罪な道楽の代名詞にまでしたその品を売り続けたのです。
9月、ブエノスアイレス地区議会は、ゲルコの工場を差し押さえ、工員たちに管財人の地位を与え、協同組合として操業させるようにしました。この種のケースでは初めて適用される手段でした。工員たちは、操業全般に責任を持つ経営チームを結成しました。
ゲルコ事件は、乗っ取りというよりも破れかぶれに近いものでしたが、それがトレンドの始まりでした。
国中で、労働者たちは家族とともに協同組合を立ち上げ、閉鎖された工場と販売店約100件で操業を維持し、一万人以上の雇用を確保しています。彼等を導いているルイス・アルベルト・カロは、多くの雇用者共同組合で代表を務めている労働問題専門の弁護士です。
ゲルコは、首都の南方郊外の古い工業地帯にあります。現在、一日12時間、稼働率50%で操業していますが、年末までには100%操業に近づけたいと工員たちは望んでいます。マネジャーたちの給料がいらなくなった分で、工員たちは約160ドルだった月収を265ドルに引き上げ、製品価格は引き下げました。補助金にも助けられていますが、収益や生産性は、州の援助分を差し引いてもなお増加していると工員たちは言います。最近の調査では、小売店もゲルコ製品はよくなっていると言っています。
「どこも困っている時で・・・」と語るのは、ゲルコ経営チームの現事務長でもある工員、ミゲル・ロブレスです。「誰も助けてくれなかったから、自分たちでやり始めたんだ。役所は動かない、労働組合も打つ手なし、銀行なんかその気もない、それじゃ自分たちしかいないでしょう。仕事がなけりゃ、自分で何とかするっきゃないんだって、みんなが分かり始めてるんだ。」
ゲルコのように労働者が運営するベンチャー事業は、アルゼンチンの社会全体で進んでいる自助努力精神の一例に過ぎません。連邦政府や地方自治体が保健予算を削減し始めた時、仮設の病院を開いたり、病人や妊娠、在宅老人などを訪問するために医師や歯科医、看護師のボランティアを募ったりしたのは、失業者の団体でした。
子供たちが充分な食糧も得られないというのに、行政が手当を削減し始めた時、人々は無料食堂を開き、寄贈の衣類を集め、コミュニティ農園を始めました。預金が底をついた時は、人々は連帯して、資金繰りに困窮している事業主や、新築を必要とする家主にお金を貸しました。
行政当局が公共教育の資金を切り捨て始めれば、教師たちがシタンの木陰や屋根のない見捨てられた倉庫で、コンピュータ、読み書き、算数の授業を始めました。輸入に押されて地場産業が打撃を受け始めれば、進取の人々が新たなベンチャー事業を創出しました。何千人もの清掃人が、街角のごみを毎夜巡り、回収可能な段ボールを探す「段ボール屋」として知られています。ほんの10年前には、年間1億ドルに近い紙製品を隣国ブラジルから輸入していたアルゼンチンでしたが、現在は再生紙と段ボールを輸出しています。
「アルゼンチンで今起こっていることは、凄いことです。公から私へと責任の所在が移っていく、新しい潮流の現れですよ」と、ブエノスアイレスの法律社会研究センターのビクトール・アブラモビッチ所長は言います。「行政はその事業活動の規模を縮小しつつあるし、経済の規模も小さくなりつつあります。行政は民衆を不幸にするような問題を作り出してきたのです。その問題に対し、今まで政府からは孤立無援の状態で、労働組合にも見放されていた極貧層の人たちが、共同利用の施設を拡大しながら対処しようとしているのです。」
「貧困層の人たちはお互いの利益のためにお互いに助け合っているのです。アルゼンチンでは、今まで多くの民衆は、私たちが考える公共の場である因習的な身分の階層の外には決して出ることはできませんでした。私たちは、閉ざされた貧困層の中だけでしか活動できなかったのです。そして、それゆえ、貧困層の人たちは、自分たちで自分たち流の公共の場というものを再創造しているのです。」
アルゼンチンの経済崩壊は、時の大統領、カルロス・メネム政権が、一時的な経済好況を狙う政策を打ち出した1990年代の産物でした。メネム大統領の経済担当チームは、アルゼンチン・ペソの価値をドル並みに固定し、国有産業を売り払い、国内市場を対外貿易に解放しました。短期間に三けたのインフレを降下させたこの施策は、世界銀行と国際金融基金から絶賛され、ひととき、アルゼンチンは自由市場再構築の模範とされました。
しかし、メネム政権が作った莫大な債務のため、ペソの対ドル平価の影響でアルゼンチンの国際競争力は失われ、国内産業は麻痺しました。メネム大統領が1999年に任を離れるとすぐに、アルゼンチンは広範な不況にさいなまれ、2001年12月には対外債務不履行に陥り、ペソの価値は対ドルで70%に急落しました。現在再選を模索しているメネム元大統領は、汚職とえこひいきで経済崩壊に油を注いだと非難されました。10人の政府高官が汚職疑惑に巻き込まれ、メネム自身も昨年、武器不正輸出罪により一時拘留されましたが、結局、悪事を行ったことは明白です。
経済破綻の一つの結末は、アルゼンチン都市部でのかつてない失業の嵐としてあらわれ、労働力の四分の一近くが失業したまま放置され、アルゼンチンの総人口3,700万人の半数以上に当たる約2千万人が、必要最低限の必需食品も購入できないほどの貧困に喘ぎました。
失業者はアルゼンチンの公共機関を信用していません。反政府デモの件数は増加しています。失業者たちが家族とともに大通りを封鎖し、仕事を要求したり、政府からの貧困者給付金月額45ドルの増額を要求したりする様は普通に見られます。
「まさに、全てが変わりました。」と言うのは、大手企業代理人の労働弁護士ダニエル・フネス・リオハです。「労働組合が人々をコントロールする時代は終わりました。今や、失業者たちがその役割を担っているのです。」
最も大胆かつ組織化された人民主義的自助組織は「失業者ムーブメント(Movement
of unemployed Workers)」で、スペイン語のイニシャル「MTD」で知られ、メンバーの給付金月額45ドルを、食糧、医薬品、生活用品の購入資金としてプールしています。この組織は、メンバーの衣食住の為の生活共同体を国中で創出しています。
ブエノスアイレス郊外の貧民窟、ソラノ地区の洞窟にあるMTDのキャンプを率いているアンドレス・フェルナンデスは「生き残るための方法を見つけなけりゃならなかったんだ」と言いました。「生活はみじめになる一方、状況は悪くなっていくばかりだった。何かやらなけりゃ生き延びられなかったのさ。」
ソラノでは、MTDが木材やコンクリートでコミュニティのパン屋と無料食堂を建て、メンバーに最低一日一食の食事を提供します。鎮痛剤や包帯といった基本的医薬品を提供する薬局もあります。預金が底をつき、アルゼンチン銀行では冷たい目で見られるしかない小企業のオーナーには、MTDがローンを組み、開業資金を提供します。
「お役所は、病院にガーゼ一枚恵んでさえくれないよ。医療に必要な最低限のものさえもね。」とフェルナンデスは言いました。
最近ある朝、ソラノのMTD居留地では、パンと野菜だけのエンパナダス(エンパナダスは揚げ餃子のような料理で本来は肉や魚も使うのですが、肉、魚肉を買う資金はほとんどないので、パンと野菜だけでエンパナダスを作っています)の準備にざわめき始めていました。簡易テーブルの上は、梱包を解かれた寄贈衣類が配布のために広げられたままでした。
コミュニティ農場のリーダー、アリエル・ゴンザレスは、トマト、ズッキーニ、コショウ、鶏肉を怒濤の勢いで仕分けていました。
「もともと農家じゃないからね。俺たちみんな、タネもムシもコヤシもよく知らないさ。だけど、食べていくためには、結局、自分たちで畑を作るしかないんだから、少しでも畑を知ってるヤツらを集めて、教えてもらわなくちゃならないのさ。」
崩れかけて屋根のない廃棄された自動車工場の中で、MTDはコンピュータを導入し技術的職業訓練コースの準備をしていました。政府の医療施設には遠くて行けないメンバーを治療するために、ボランティアの医師が週に一度訪ねてきます。さらに北にある田舎の居留地では、一番近い公立学校まで6キロメートル以上も離れている子供たちのために、MTDが学校を作りました。
アルゼンチンの失業貧困層の自助努力を正当化するなかで、今や、破産事業の接収は遠い昔です。カロを始めとする弁護士が「公的保障法」(公共建設計画に従って行政が民家を接収できるという法律だが、適用例はほとんどない)を適用し、閉鎖した工場を労働者が譲り受けられると公益になると主張しうまくいきました。
アルゼンチン法廷はこれに同意し、「公的保障法」はアルゼンチン民衆の貧困を解決する上での強力な手段となりました。カロに言わせれば問題はまだあり、緊縮財政の中で、操業継続のため消耗品や道具を買う交渉をしなければならない労働者たちは多いのです。
ゲルコの工員たちは、徐々にこの問題を取り巻く道を見つけています。元手はあまりにも少ないので、工場は顧客に注文に応じた素材供給や前払いを求めます。それでも、彼等は製品を破産以前よりかなり安く、小売店からの援助を勘案してもなお安い価格で売っています。
29人もいた高給取りマネジャーの給料が要らなくなったことも工場に恩恵を与えています。最近、顧客からの注文が増え始めました。破産申告時、会社は稼働率60%で操業していました。ゲルコは今年半ばまでにそれを凌ぐだろうとカロはみています。
「こういうことを始めたまさにその時は、巷の並のアルゼンチン人から見たら、そんなことするヤツは誰もいなかったよ」と、ゲルコ労働者協同組合長、ノルベルト・モンソンは言いました。「俺たちは、ずっとやってきた仕事を、相変わらずやっているんだ。誰よりもうまくできると知っている仕事をね。今は、自分がやらなかったら仕事がなくなる、給料がなくなるんだとわかってやっているよ。」
労働組合は、労働者が工場に舞い戻っていることが明らかになってから「手伝うことはないか?」と声を掛けてきました。行政は、閉鎖された工場の再開を目指す労働者を支援する部局を新設しました。
では、オーナーたちは何をしたでしょう?
「数ヶ月前に電話がきて・・・」とモンソンは言いました。「俺たちから工場を買い戻したいと言ってきたよ。」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A55754-2003Feb23.html
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